子供のためのコンクールの落とし穴・・・

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ちまたでは、子供のコンクールが目白押しです。

たとえば、課題曲が4曲以上もある大掛かりなコンクールなどが盛んに行われています。

しかし・・・私は子供のコンクールには否定的な意見を持っています!

せめて本格的なコンクールはソナタレベルに達した中学生になってからでないと、いろいろ弊害が起きると考えています。

子供がピアノを習う時には、まず、読譜力、ソルフェージュ力、音楽性を養うことを中心にすすめるのですが、あまり課題曲の多いコンクールなどを受けていると、その課題曲の勉強に全ての時間が費やされて、読譜力、ソルフェージュ力、基礎的な音楽性を勉強できなくなる可能性があるのです。

一見、難しい課題曲を練習しているんだから、それで十分だろうと考えるかも知れませんが、・・・しかし!コンクールを受け回っている子供は、実は読譜力、ソルフェージュ力、基礎的な音楽性がない場合が多いのでは?・・・なんていうか?その課題曲はよく弾けてもその他が弾けないというか?応用力がないというか?

この、読譜力、ソルフェージュ力、基礎的な音楽性を養うには、ありったけの教則本の曲をさらう必要性があります。そうやって様々なパターンを勉強する事により、自分一人で、読譜も、リズム感も、音楽も、できるようになるのですが、どうやら、コンクールを受け回る小学生はどうやら半年間にたったの4曲(課題曲のみ!)程度しか曲を練習しないのです!

これはつまり、ともすると4パターンしか読譜、ソルフェージュ、音楽を勉強していない事になっちゃうかもしれないという事です!

まあ、もちろんすべての人がそうではないとも思いますが、しかし、ソナタレベルの課題曲を弾いていながら、コンクールが終わると、バイエルレベルの曲に戻って練習しはじめるという事も聞きます。

また、もう一つの問題、それは、どう考えても、子供が体格的、音楽的にまだ早すぎる曲を弾いているという事です。

確かに子供は無茶をすれば、難易度の高い曲を弾けるかも知れません。しかし、それは、ともすると、強引なピアノの弾き方、そして、単なる演奏コピーマシーンになりかねないのです。

考えても見て下さい。体格的、精神年齢的にまだまだ大人でない子供であれば、おそらく「もっと力を入れて大きい音で!もっとクレッシェンドして!」と言われながらピアノを弾いているはずです。そういう場合、子供が自分の中で、本当に音楽を分かっていてそう弾いているのならよいのですが、もし、言われるままに大きい音を出しているだけだとしたら・・・残念ながら、それは本当に音楽を感じながら、ピアノを弾いているとは言えないのです。

ピアノ教育の世界はともすると、何でも早熟になる傾向があるのですが、コンクールも、もしかすると、大規模なコンクールではなく、課題曲が1〜2曲のコンクールから受けはじめる方が良いかも知れません。


子供のためのコンクールpart2・・・(コンクールは楽しむ為にある!)

夏の時期になると、子供のコンクールが目白押しです。

そして、このコンクールというものは、子供が一生懸命練習した事とは裏腹に、過酷な結果が待ち受けます。

そう!一次、二次予選を通過するか否か!です。

この一喜一憂に、子供はもちろん、親もほんろうされるわけです。

残念な事に、レベルの高いコンクールであればある程、予選を通過する人数は少なくなっていきます。

そして、さらに残念な事に、この予選において、審査員はあらゆる人たちからブーイングを受けるはめになるのです。

まあ、ブーイングの内容は、当たっている事もあれば、当たっていない事もあるでしょう。

コンクールは、私も良く受けるので講評の内容において、?な事は確かにありますよ。でもね、それがコンクールなんですよ。

それを承知でコンクールを受けないと、不満だらけになってしまうし、子供は落ち込むし、せっかくの黄金色の夏休みが灰色の夏休みになってしまう。

もっとも、子供のコンクールだから、こういう事が起きると思うのです。

これが、中学生〜大学生ぐらいのコンクールになると、そうもいってられなくなる。

なぜなら、大人になるに従って、課題曲のレベルが高くなり、もう結果を待つ前に、自分自身、様々な反省点が山積みとなってしまうからです。

そう、つまり審査員にケチをつける気も、余裕もなくなってしまう。

せっかく子供の時期に、人前で、良い体験をするのですから、思う存分楽しもうと思わないと、コンクールを受ける価値がないんじゃあないのかなあ?。

もちろん、何が何でも一位になりたい!と言うのなら、あえて反論はいたしませんが・・・

私は思うに、コンクールは、課題曲を受け取ってから、本番終了までが、一位のトロフィーよりも、ものすごい価値のある物だと思っています。


子供のためのコンクールpart3・・・(私の昔話)

今年も子供コンクールの時期がやってまいりました。私の生徒も数人出場する予定です。

なんか音楽のコンクールなのにまるでカーレースF1グランプリ予選のように、やれスピードが足りないだの、ウォーミングアップが足りないだの、すべるだの、(フレーズの入り口で)フライングをやってしまうだの、ペース配分が間違っているだの、鍵盤からコースアウトをするだので・・・最後まで最終調整に余念がありません。しかし、司会進行にハイレグのレースクイーンがいないところを見ると、やはりカーレースではなく、芸術音楽のコンペティションである事は間違いないようで・・・。(お父さん達残念!)

このコンクールとやら、実際は予選を勝ち抜いてなんとか最終本選まで!そしてシャンパン表彰台(?)を狙えとばかりにみなさん真剣です。

しかし、私自身はけっこうのんきで、「参加すればそれでええんでないの」といった感じです。

そう、私は勝敗にこだわってはいない。

だいたい子供のコンクールで賞を取る事は、まあそれ自体とても本人には嬉しい事でしょうが、それは私から言わせれば、そんなの取っても、だから明日からプロに成れるわけではない、と冷たい感想・・・。そんな言い方ないでしょう?と言われそうですが、しかし私自身はコンクールは、本来真剣にやる場合はプロを目指す人のための催し物と考えています。

そもそも、コンクールが始まったのは第2時世界大戦終了後、それまでは王侯貴族などからの援助のもと、チャンスをつかめた音楽家がプロとして世に出ていましたが、そのパトロンなどが資本主義の台頭により、消滅し始めたころから、天才音楽家が資本力がなくとも、世に出られる様にという事から始まりました。そう、そもそもずば抜けた天才音楽家がプロデビューのために設けられたものなのです。

しかしそれが今や、幅広いレベルと年齢層において催しをされている。

もちろん、それはそれで良い事だと思います。コンクールに出る事をきっかけに何がしかのプラスになる事があればそれにこした事はない・・・なんですが・・・やはり日本などはそれが過熱し過ぎて、んー、と思う現象になる。

ひょっとして日本人はラテン系人種より変な所で過熱が好きかもしれません。バブルなんてえのもそのひとつでしょう。

私もその過熱していた人の一人。あの頃(20代)は大変だった。とにかくやたらあちこちのコンクールを受けていました。しかし、そもそも実力がない自分が良い結果が出るわけでもなく・・・そして、気がついた頃にはピアノを弾く事に罪悪感をもち、自分を責め、本番まぎわに胃の調子がすごく変になって吐いたり、本選に通らなかった事を根に持って、帰り際にむしゃくしゃして「これは審査員の車か?」と勝手に思ってベンツのボディーを思いっきり蹴り上げてへコミを残して逃げてきたり(嘘です。多分・・・)

同じ事は自分の小学低学年の生徒で、以前、予選を通らなかったためにしょぼくれていたので「なんかこのコンクールって、最後はうまい人を選んでその人たちをあみだくじで審査員が選んで決めているらしいよ。だから下手で通らなかったわけじゃないんだよ」と慰めると、いつもはおとなしい子がいきなり「あみだ?ふざけんな!審査員なんか、クソくらえだ!(fuck you!ってやつですか?)殴り倒してやる!」とひょう変したのを見てがくぜんとしたのを覚えている。

やはり自分の弟子の血は争えないってことか?

話は元に戻りますが、最終的には20代後半はピアノを弾く事が嫌になって30になるまで全く弾かなくなってしまいました。何たって人前でピアノを弾く事が単なる「苦しみ」になってしまったのですから。

あの時、間違いなく私は精神的に病んでいたと思います。

あれからずいぶん経って、最近行われた発表会の時に講師演奏が忙しさのあまりに、できなかったのですが、その時初めて知りました。舞台でピアノをできれば弾きたいと。

ピアノを人前で弾く事がどれほど楽しい事なのか、それは自分が苦しみながら弾いていた時には味わえなかった事です。

ピアノが人前で弾く事が楽しいなんて事、原点であるはずが、この歳になって気がつくとは・・・なんてこった・・・

しかしコンクールはもちろん、害ばかりかといえばそうでもなく、やはり発表会と違って、かなりの完成度を求められます。いい加減な演奏、中途半端な演奏、それは発表会では良しとされても、コンクールでは、はねられます。発表会では、お祝いという催し物のため、問題点はなおざりにされてしまいますが、完成度の高い演奏を心掛けるためには、やはりコンクールという審査は必要不可欠でしょう。

話は変わりますが、今後コンクールに行く時に、高級外車でおでかけする方は、十分お気をつけ下さい。


子供のためのコンクールpart4・・・(私の持論)

大人の世界ではコンクールはレベルが高いコンクールであればあるほど、自分の将来の肩書きのために受ける。そこには楽しみとか、経験とか、そんなゆうちょうな事は言ってられない。

みんな自分の生活のために必死であるし、がけっぷち状態で受けている人がほとんどだろう。

大人はしかたがない。自分で選んだ道なのだから。

しかし、子供は状況が違う。プロのコンサートピアニストになりたいと言うのならまだしも、一般には正の利益よりも負の利益の方が多い。

人間の欲望は尽きる事なく、さらに上が欲しくなる動物なので、どうしてもある賞を取れば、さらに上が欲しくなるのは当然である。

もしくは、惜しくも賞を逃せば、今度こそは!とチャレンジをしてしまう。

そういう事をしている内に、楽しみよりも苦しみの方が多くなってくる。

まあそれも、熱血高校野球的で良いかもしれないが、よ〜く考えてみると、対戦相手がいる野球ではなく、音楽を演奏しているだけなのだ。もちろん、どこにも対戦相手などいない。

ここに、コンクールの弊害がある。

食っていくために、プロになるためにコンクールを受けるのは理解出来ても、それ以外の人たちが競う事は、良く考えると疑問点はある。

ツィマーマンとホロビッツ。もしくは、私が気に入っているガヴリリリュクとコブリン、どちらのピアニストがうまいか?などと言う事は全く持って意味がない。

どちらもうまいに決まっている。

話は違うが、王将の餃子と、私の生徒がコックをしている高級フランス料理・サンジュリアンの料理、どちらもうまいに決まっている(私にとっては)

要するに、ピアノを弾く人は聴衆の前で楽しんで弾ければそれで良いのだ。

もう一つ、コンクールの弊害、それは指導者側からの意見として、コンクールというレベルの高さゆえに、曲の完成度を異常に高めなければいけないという所から来ている。

通常、発表会などの一般的な演奏会の場合は、音ミスや、転び、音ぬけなどの完成度はそれほど高めなくとも、良しとされるのが常です。

いちいち重箱を突っ突く様な事は必要ないし、良くない。

しかし、残念ながら、コンクールはそういう、音ミスや、転び、音ぬけなどをすれば、たちどころに減点対象になる。これらはコンクールでは絶対に許されない。

それ故に、どうしても完成度を上げるために、本人にはかなりの練習量と、時間、そして忍耐力を必要としてしまう。

当然の事ながら、良い音楽性を持ってして演奏しているならば、こちらも誉めてあげたいのだが、コンクールはそこまででは、まだ誉めて終了段階・・・ではない。

おまけに、本来ならば、子供の指導の場合、あらゆる曲、もしくはソルフェージュを勉強させなければいけないのに、それをさせずに、ただひたすら課題曲を練習させる事になる。

忍耐力を強要だけならまだしも、効率の悪い勉強は、決して良い事ではい。

結果的に、子供がコンクールに参加するという事は、様々な面において、どうしても無理が生じやすい。

刺激を受けるために、もしくは自分を試したいために、積極的に勉強をしたいから、あの緊張感が好きだから、・・・つまり、正の利益がある限りは受けても良いが、負の利益が出始めたら・・・いつかどこかでストップをかけた方が良い。

そうしないと、どんどん砂地獄にはまってしまう。

話はさらに全然違うが、私の愛車は親から譲ってもらったクラウンである。

クラウンと言ってもなんと!、18年落ちのビンテージクラウンである。

あちこちがいかれ始めていて、この間エンジンマフラーを8万円で交換したと思ったら、今度はクーラーが壊れてしまった。

何でも20万円かかるらしい。

今度こそは!クーラーを直せばしばらくは故障が出ないだろう・・・。

コンクールと同じく、この車もいつの日か、廃車にしないと、どんどん砂地獄にはまってしまう。

分かってはいながら、止められないのだ・・・。

・・・と言っている間に、どこか私の持論などという事がすっ飛んでしまったようだ。

長くなったのでここいらでおしまいにしよう。